広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter68. 梅ヶ香

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

「梅ヶ香にのっと日の出る山路哉」は芭蕉最後の春に詠まれ、知らぬ人も少ない名句です。草花がほとんど咲いていない立春過ぎのこの季節に、可憐な花を開いてくれる梅や水仙は目を楽しませるだけでなく、香りでも極寒の空気を和らげてくれる貴重な草木です。植物の持っている香りの効果で心と身体を癒そうという試みは、アロマテラピーと名付けられ100年近い歴史があります。もっともその効能のメカニズムはよく判っていません。一説には、芳香物質が嗅覚神経を刺激して鼻から脳にシグナルが伝達され、その過程で気分を左右する物質の分泌を促すと言います。他方、芳香物質に含まれる化学成分が呼吸によって鼻粘膜や肺から血液中に吸収され、血液を介して脳に到達して効果を発するとも言われています。

脳から直接出ている神経を脳神経といいますが、ヒトを含め哺乳類などでは左右12対存在し、それぞれ第I(嗅神経)、第II(視神経)、第III(動眼神経)、第IV(滑車神経)、第V(三叉神経)、第VI(外転神経)、第VII(顔面神経)第VIII(内耳神経)、第IX(舌咽神経)、第X(迷走神経)、第XI(副神経)、第XII(舌下神経)まで番号がついています。医学生時代は試験に備えて、「嗅(か)いで視(み)る動(うご)く車(くるま)の三(さん)の外(そと)、顔(かお)耳(みみ)のどに迷(まよ)う副(ふく)舌(ぜつ)」と語呂合わせをして暗記したものです。第I脳神経が嗅神経で文字通り嗅覚をつかさどります。ヒトの五感すなわち視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のうち、嗅覚は他の感覚に比べて比較的重要視されていないように見受けます。しかし動物では臭いを識別することは、種族保存のための危険予知あるいは食料取得という生命の維持に不可欠な感覚機能です。動物で鼻が長く前に出ているのはある意味生存していくための理にかなっていると言えます。一方、人間は二足歩行をするようになってから鼻が短くなり、嗅覚は退化し続け、野生動物のそれの何百分の一に衰えたようです。

とは言え、嗅覚の持つイメージは多彩で、香り、馨り、薫り、アロマ、臭い、匂い等々、いろいろな表現がなされます。英語でも、smell、aroma、perfume、fragrance、scentと多数の表現があることは、洋の東西を問わず香りが重視されている証拠でしょう。その嗅覚に変調を来すと大変です。嗅覚の減退、軽度のにおいにも耐えられない嗅覚過敏、よいはずのにおいを悪臭と感じる異臭症など、本人にとって苦痛以外の何物でもありません。私の若い頃に抗がん剤治療を行っていた受け持ちの患者さんから、「先生が来るとムカツク」と言われてショックを受けたことがあります。私が嫌いだったわけではなく、私のつけていた整髪料のにおいが、薬剤の副作用で嗅覚異常に陥っていた彼女をムカツかせたのでした。それ以来、患者さんと接するときはできるだけ無香料の化粧品を使うよう心がけています。この例では嗅覚異常の原因ははっきりしていましたが、中には診断・治療に難渋する場合もあります。早く専門医に診てもらうようお勧めします。

難しいことはさておき、寒風の中でけなげに咲いている紅梅や白梅、春を告げる水仙を目で楽しむだけでなく、香りも愛でるために梅林や水仙郷に出かけてみませんか。

(2015.2.1)