広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter35. 神の手

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

阪神間で生まれ育ち、学生時代も過ごした私にとって、約5年間単身で赴任した前任地の広島県呉市は第二の故郷です。また第三の故郷と言うことが出来るのが、約2年半の留学生活をおくった世界最古のがん研究所「ロズウェルパーク記念研究所(現Roswell Park Cancer Institute)」のあるアメリカ、ニューヨーク州バッファロー市です。カナダとの国境に近く、五大湖のひとつエリー湖に面したバッファロー郊外のアパートからは、数十分のドライブでナイアガラの滝へ行けます。冬季はナイアガラの滝も凍るほど厳寒の地ですが、緯度が高いため、夏場はサマータイムと相まって夜9時を過ぎても明るく、アウトドアライフを楽しめます。

1980年代の初めは、ニューヨーク州といえども日本人の少ないバッファローでは日本食材を取り扱う店が無く、カナダのトロントまで買い出しに行くこともしばしばでした。トロントにはバンクーバーに次ぐカナダ第二の規模のチャイナタウンがあり、本場中国料理を味わえる上に、アジアの食材に事欠かないので、片道2時間のドライブも苦になりません。当時のアメリカはガソリンの価格が急上昇しつつある時期で、国の政策でガソリンを低価格に抑えているカナダへ国境を越えてでもガソリンの買い出しに行く人も多く、私たちもトロントからの帰りは満タン給油を心がけていました。

私たち家族が帰国の途についた直後の1982年10月、トロント生まれのピアニスト、グレン・グールド(Glenn Herbert Gould)が50歳の短い生涯を終え、トロントの墓地に埋葬されています。グールドはその風貌と短命から音楽界のジェームズ・ディーンに模されるほど時代の寵児としてもてはやされました。彼が数ある作曲家の中でもバッハに傾倒していたことはよく知られています。バッハはドイツ・プロテスタント文化圏の旗手として、同じバロック音楽でもフランスやイタリアの華やかで派手好みのカトリック文化とは一線を画していると解釈されるようです。グールドがデビュー盤で斬新な解釈を示したバッハ「ゴルトベルク変奏曲」を取り上げたのも、熱心なプロテスタント家系であったことと結びついているのかも知れません。

グールドは若くしてコンサート活動から引退し、専らレコーディングや放送などメディアによる演奏活動に没頭します。彼がライブ・コンサートを嫌ったのは、完璧な演奏を求めるあまり、再現性のない演奏会を避けたためと考えられます。瓶入りミネラルウオーターと大量のビタミン剤・サプリメントを服用するなどの健康志向に加え、握手もしないくらいの異様な潔癖症もその底流にあるのでしょう。これほど病気恐怖症のグールドが皮肉なことに脳卒中で若死にしています。しかし特製の低い椅子で極端な前のめり姿勢で演奏するなど、公私にわたり奇人、変人であった彼も決して孤独であったわけではありません。恋人たちの証言を元に作られたドキュメンタリー映画「グレン・グールド 天才ピアニストの愛と孤独」は、グールドの知られざるエピソードも含めて、彼の複雑な人間性を次々と紹介しています。

グールドは多くの指揮者を怒らせています。彼は演奏中に片手が空くと、共演中のオーケストラの指揮を取り出すから、マエストロが激怒するのも当然です。とりわけバーンスタインとの衝突は有名で、聴衆に対して演奏前にバーンスタインをして「これからの演奏は自分の本意ではない」とまで言わせたそうです。ピアニストの世界で、「神の手」の持ち主とも言えるグレン・グールドですが、医療の世界にも「神の手」と称される外科医は散見されます。しかし、病院を運営・管理する立場の私からは、いくら手術の名手であっても、グールドのような性格の「神の手」なら要らないな、というのが正直な気持ちです。コミュニケーションを重んじ、チーム医療を大事にする芦屋病院では「調和」を大切にしていきたいと考えます。いくら「神の手」であっても、奇人・変人では医療者としていかがなものでしょうか。

(2012.5.1)