事業管理者のつぶやき
Chapter32. 仮面
市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆
パリのオペラ座を舞台にした怪奇ロマン小説「オペラ座の怪人」は、何度も映画化あるいはテレビドラマ化されただけでなく、ミュージカル作品として永年にわたり人気を保ってきました。日本では劇団四季が初演して以来、国内各地でロングラン上演されている傑作の一つです。「オペラ座の怪人」と言えばミュージカルを連想するほど定着したのは、原作の怪奇小説から不滅のラブストーリーに変化させた作曲家アンドリュー・ロイド=ウェーバー氏の功績でしょう。「ハンニバル」に始まり、「エンジェル・オブ・ミュージック」「ファントム・オブ・ジ・オペラ」「ミュージック・オブ・ザ・ナイト」などの数々のナンバーはどれをとっても、世界のファンを魅了しただけのことはあります。昨年10月に、ミュージカル「オペラ座の怪人」誕生25周年を迎え、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで記念公演が行われました。その公演映像では、期待を裏切らない迫力ある場面に時を忘れて楽しむことが出来ます。なかでも「マスカレード」が歌われるシーンの華麗な舞台とその音楽が私にとって印象的でした。
「マスカレード(仮面舞踏会)」では、登場人物全員が仮面を着けて舞踏会に臨みます。仮面舞踏会と言えば中世のヴェネチアが盛んで、いまもヴェネチアに行くと土産物屋で数多くの種類の仮面(マスケラ)を見ることが出来ます。大竹しのぶが出演するクレジットカード会社のCMでも、ヨーロッパの夜の街角で仮面を着けたパーティ衣装の男女と出会う幻想的なくだりがありました。マスケラには顔全体を覆うフルフェイスのものと一部分を隠すタイプがあります。オペラ座の怪人(ファントム)が着けているのは、顔の醜い部分だけを覆うタイプです。仮面は個人を識別不能にする匿名性ゆえに悪用される可能性があり、道徳や倫理を麻痺させるという非難が起こり、仮面舞踏会の反対運動も起こったそうです。インターネット上の匿名ハッカー集団「アノニマス」が公の場ではガイ・フォークス(17世紀に国会議事堂の爆破を企てたイギリスのテロリスト)の仮面をつけて現れるのも、仮面=匿名を象徴しています。しかし、ハロウィンパーティでは仮装がもてはやされるなど、人間の持つ善悪の二面性は天性なのかも知れません。
マスケラの中に、通称「医者のマスク」と呼ばれる長い嘴(くちばし)を持ったマスクがあります。17世紀初頭にペストが流行した際、嘴の長いマスクを着けることによって、診察するときに医師が患者から距離を取って感染を防ごうとした故事に由来しています。新型インフルエンザの感染防御に高機能マスクを着用する現代ですが、発想のルーツは中世と変わりません。
医療の世界でも「仮面」という言葉はしばしば使われます。「仮面高血圧」とは、診察室で測定した血圧が正常値であるのに、家庭や職場などにおける血圧が高く、本当の高血圧が診察の時にマスクされていると言う意味で、危険なタイプの高血圧です。ちなみに「白衣高血圧」はこれとは逆に、普段は正常血圧なのに医師や看護師が血圧を測ると値が高くなる状態を言います。また「仮面うつ病」という病名があります。実際はうつ病なのに、消化器症状、循環器症状、神経症状などの身体症状が表に出て、精神症状を仮面で覆っている様な病態です。仮面に惑わされるととんでもないことになるのは、医療でも、舞踏会でも一緒です。
(2012.2.1)