事業管理者のつぶやき
Chapter188.食べ物が変えた歴史 NEW
市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆
「生きるために食べよ、食べるために生きるな」はソクラテスの名言といわれます。その意味は「愚劣な人々は食べたり飲んだりするために生きているが、しかし、善き人々は生きるために食べたり飲んだりする」すなわち「食べることはあくまで手段であって、生きるという目的と取り違えてはならない」という警句と捉えています。しかし、果たして本当でしょうか。人類の歴史は実は食を求めてのそれであったとも考えられます。
人類は十数万年にわたり、植物を集めたり動物を狩ったりした狩猟採集民でした。遊牧民的生活を送っていた人類が定着して生活するようになったのは、野生植物の米、麦、トウモロコシが栽培されるようになったからです。同様に動物においても、野生の羊、山羊の飼育から始まり、豚、牛、鶏と家畜化が続きました。このように植物の栽培化や動物の家畜化はドメスティケーション(domestication)と呼ばれ、農業、畜産業が始まりました。もっともドメスティケーションは野山を自由に駆け巡っていた狩猟採集民時代に比べて、作業に従事・束縛される時間がはるかに長時間となり、果たして本当に幸せだったのかという疑問は残るようです。
人類が定住化し、農耕で得られた食物は貨幣の形で流通し、賃金や税金の支払いに充てられるようになります。わが国においても、農民が租税(年貢)として収穫米を納め、武士が主君から給料(俸禄)として扶持米を賜っていたのはつい少し前の時代でした。江戸幕府や諸藩の蔵に収納された年貢米は、換金のため市場に放出され、大坂に米相場を扱う堂島米会所が開設され、世界初の近代的な商品先物取引が行われたのは知る人ぞ知るところです。
食料の中には、主食として供される穀類や肉類以外に、香辛料も含まれます。香辛料(spice,スパイス)は、「special、スペシャル」と同様にラテン語「species」を語源としていて、特別なものであり、高価な品々を意味しています。古代ローマ時代、シナモン、胡椒、生姜、沈香、ターメリック等々の外国産スパイスは、超高価な貴重品として富と権力の象徴のように扱われました。船荷として嵩張らず、高価なスパイスは一攫千金を夢見る商人にとって垂涎の的で、その結果産地インドへの直行航路が開発されました。陸路シルクロードもまたスパイスの行路となりました。時はくだって、コロンブスのアメリカ大陸発見もまた、ヨーロッパから西向き航路でインドに到達しようとした結果です。この探検も香辛料を求めてのことでした。このように食へのあくなき欲求が、新たな航路の開発など歴史上の大発見を生み出したのです。
イギリス人ジャーナリスト、トム・スタンデージはその著「An edible history of humanity(食べ物でたどる世界史)」(楽工社、2024)で、食べ物がいかに私たちの生きる世界の形成に影響を与えてきたかについて、上述のように縷々語っています。アフリカ人を新世界に拉致し、労働に従事させた奴隷制度も、味覚を満足させる砂糖増産のためであったエピソードとか、ナポレオンのモスクワ遠征が大敗に終わったのも、ロシア軍が戦うことなく、食料をすべて処分して撤退した結果であったなど、いくら武器・弾薬が豊富でも食料補給路を絶たれると、悲惨な結末に終わるエピソードを紹介しています。歴史に「もしも」はありませんが、食物が人類に与えた影響について思いをめぐらす佳作です。
(2025.2.1)