広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter18. 医療ツーリズム

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

ニューヨークで9.11事件が起こった直後は、アラブのお金持ちと言えどもイスラム=テロリストと短絡され、アメリカで高度医療を受けられなくなったことがあったそうです。このとき、タイにある富裕層対象の私立病院は、医療レベルの高さとアメニティの良さで、アメリカに入国出来ないアラブ人で賑わったと言います。私が首都バンコクの国立病院を訪問したときのことです。救急外来は24時間ラッシュアワーの大阪駅さながらに患者でごった返し、病棟によっては何十人部屋というような大部屋で医療・看護が行われ、診察が翌日回しになることも日常茶飯事との説明を受けました。国立病院は医療費が安いことが混雑の原因だそうです。一方、富裕層向けの私立病院を訪ねた私の同僚は、ホテルと見まがう建物で、タイの人々の定評のあるもてなしを受けて、最新の医療機器で診療が行われていると、その格差にびっくりしていました。もちろん医療費は普通の国民では払えないほど高いのですが、国内外の金持ちにとっては、むしろ安いくらいなのでしょう。

高度な医療を国外で受ける、あるいは自国よりも安価に治療や手術を受けるために外国旅行をすることを「医療ツーリズム」と呼び、いま論議になっています。欧米人が医療費の安いパキスタンやインドへ出向いて、治療を受けたのは良かったのですが、その際ニューデリー・メタロ・β-ラクタマーゼ 1(NDM-1) 産生多剤耐性菌に感染し、大問題になっています。ほとんどの抗生物質が効かない細菌の侵入は、鳥インフルエンザ同様の大事件です。日本でもNDM-1産生細菌が報告され、すでに国内に入り込んでいると考えられます。

わが国においても、第二次世界大戦後の一時期、医療ツーリズムを受入れていた時代がありました。当時アメリカは人工妊娠中絶が認められず(今も州によっては人工妊娠中絶は禁止です)、認められても費用が高かったため、妊娠中絶が事実上自由で安価な日本にツアーを組んでやって来たとのことです。1955年の人工妊娠中絶件数は届け出数で117万件、2007年が25万件であること(厚生の指標)を見れば、わが国でいかに手軽に妊娠中絶が行われていたか容易に推測できます。

さて、その「医療ツーリズム」に政府や経済産業省が目をつけています。医療滞在ビザの発給や特区制度を設けて、外国人とくに中国人富裕層をターゲットに、PET検診と観光を組み合わせたツアー、あるいは特区を利用しての高度医療などを模索しています。これはタイ国の観光収入の一割が医療ツーリズムによることも刺激になっているに違いありません。一方、日本医師会は医療ツーリズムに大反対です。医師不足等で医療崩壊と言われる日本の医療を再生せずに、海外の医療需要に対応するのは本末転倒である、医療保険に依存しない民間市場を拡大することは、国民皆保険制度の崩壊を招く、特区を設けて外国人患者受け入れの医療機関を認証すると、いわゆる勝ち組医療機関が生まれて、医療格差が拡大する、などが反対の理由です。いずれももっともだと思います。

しかし、残念ながら医療ツーリズムの流れに棹をさすことは至難の業と思います。内閣府の新成長戦略に組み込まれ、経済産業省が乗り気で、一部の大病院も旅行社と組んで医療ツーリスト集めに着手しています。兵庫県や神戸市もポートアイランドを医療特区に申請しようとしているようです。医療ツーリズム先進国のタイ、シンガポール、インドに比べて、語学力など多くの点で不利なわが国に、それほど医療ツーリストが訪れるとは思えませんが、医療者は利にさとい企業には勝てないでしょう。

芦屋病院は医療ツーリズムなどに振り回されず、地元にしっかりと根を下ろして、在住外国人も含めて地域の住民に貢献出来る病院であり続けたいと願っています。

(2010.12.1)