広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter176.石垣

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

 「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」は戦国武将、武田信玄の名言です。前半部分の解釈として、立派な城を築くより、強い武士を育てる方が戦に勝てるとされ、人材育成こそ企業経営の極意であると、現代社会でも通用する言葉だと会社トップが重用、引用しています。たしかに私も含めて事業の管理・運営に携わる者は、人材マネジメントの重要性を痛感しています。では武田信玄はともかくとして、戦国にあって強固な城は本当に不要だったのでしょうか。

 第166回直木賞受賞作「塞王の盾」(今村翔吾)は城郭の石積み職人匡介(きょうすけ)を主人公にして、関ヶ原の戦いの直前に京極高次が毛利元康率いる西軍を足止めした近江国の大津城の攻防を描いています。恭介の師匠を務めるのが、穴太衆(あのうしゅう)のなかで当代随一を意味する「塞王」の異名を持つ飛田源斎です。穴太衆とは現在の滋賀県大津市坂本穴太地区で千年にわたり住む石工職人集団で、主に寺院や城郭などの石垣施工を行ってきました。高く堅牢な石垣を積む穴太衆の技術は安土城の築城で一躍有名になり、「穴太衆」といえば石工全般を指す普通名詞になったくらいです。

 石垣などの石積みには、石材の選定と石材の配置がコツであるといいます。石積みにはまた積み石の加工程度によって、①野ざらしの自然石や山から切り出した石を加工せずに積む「野面(のづら)」②ゲンノウで石の角を叩き、石と石の合端を合わせる「打込みはぎ」③ノミやタガネで石を削り、石と石の間に隙間を作らない「切込みはぎ」に大別されます。「穴太衆積み」は「野面」に分類され、自然石をそのまま使い、形と大きさが異なる石を積み上げて堅牢で美しい石垣を構築します。そのためには石を見る目を養うことだそうで、その結果「石の声を聞く」ようになれば一人前と言います。

 大坂城は豊臣秀吉によって築かれていますが、現存する石垣や堀は徳川幕府が再築したもので、石垣の積み方も異なっています。豊臣大坂城では「野面」だったものが、徳川大坂城では「打込みはぎ」、「切込みはぎ」の工法が採用されています。再築城にあたっては、六甲山系の石切場から切り出された花崗岩(御影石)が石垣用石材に多用されています。石材には印が刻まれていて、芦屋市を含め阪神間には大坂城の石垣に見られる石材同様の「刻印石」が残っています。実は芦屋病院の敷地内にも大きな刻印石がありますがご存知でしょうか。

 昨年のある日、「トアロード カレッジ」が神戸倶楽部で開催され、「トアホテルのシェフと謎の石垣の物語〜外国人との多文化共創のまちづくりを考える〜」のタイトルで、三宅正弘教授(武庫川女子大学)の講義を聴く機会がありました。三宅先生は「阪神間石垣バンク事務局」の活動もされていたという石垣研究の第一人者です。石垣に関する蘊蓄がたっぷり入った講演を聴講した後、トアロード突き当たりに東西に続くユニークな石積みの石垣を実地見学しました。先生は芦屋市出身、芦屋市在住で、芦屋市史編纂専門委員も務められています。地域デザインにおける石の街並みに注目された先生の研究は、国際文化住宅都市芦屋市のまちづくりにも活かされることでしょう。

 さて石工職人に焦点を当てた戦国小説「塞王の盾」では、大津城を巡る攻防に最強の盾に対峙する、無敵の矛も存在します。鉄砲職人「国友衆」の彦九郎(げんくろう)の作る大筒です。矛と盾の手に汗握る争いは読み応えのある一遍です。

(2024.2.1)