広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter163.読めない漢字、書けない漢字

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

新年度に多くの企業が入社式を行いますが、芦屋病院でも同様で採用辞令の交付式があります。加えて年度途中の入職者を対象に月初めに辞令交付式もよく行われます。医療従事者は女性が多いため、男女共同参画の時代とはいえ夫の転勤や育児等で離職する職員があり、補充採用が必要になるからです。私が辞令を渡す際に、ハタと困るのが名前の読み方です。◯子や◯◯子などはまずお目にかかることはなく、芸名やペンネームかと思うような名が続きます。咲南(さな)、汐音(しおん)、いずれもわが病院の職員です。みなさん、読めますか?

    一生涯 読みを聞かれる キラネーム
    (毎日新聞・仲畑流万能川柳 東大阪・きくさん)

キラキラネームはパソコンに打ち込んでも一発変換してくれません。みなさんは自分の姓名の漢字を伝えるときにどう表現されていますか。私の姓は、「にんべんに左の『佐』」と「おさめるの『治』」と言い、名は「文章の『文』」と「法隆寺の『隆』」と言うようにしています。「わたなべ」さんの場合は大変なようです。「普通のやつです」「難しいやつです」「その中間のやつです」と三通りあって、それぞれ「渡辺」「渡邊」「渡邉」を意味します(武田砂鉄「今日拾った言葉たち」暮しの手帖社)。それ以外にも「渡部」も「わたなべ」と読みますよね。私は未だ「渡邊」「渡邉」をちゃんと書けなくて、「渡辺」で通すことが多々あります。

医学用語の漢字に関してはもっとたいへんです。たとえば皮膚科で使われる苔癬(たいせん)、粃糠疹(ひこうしん)、疣贅(ゆうぜい)などは読めない、あるいは読めても書けない病名ではないでしょうか。電子カルテはもとよりパソコンもなかった学生時代の私などは、早々と皮膚科医は断念しました。医療分野の漢字が難しい理由として、ひとつは言葉の表す概念が難しい、あるいは概念はわかっても言葉が難しいと、二通り考えられます。前者の概念そのものが難しいのは、医学・医療と言うきわめて高度な専門分野である以上は許容範囲と思います。一方、後者でいう概念は理解できても言葉が難しいのはなぜでしょうか。(西嶋佑太郎「医学をめぐる漢字の不思議」大修館書店)

医学用語が難しいのは、「わざと難しい言葉を使っている」「業界用語を使って患者にわからないようにしている」などの批判があります。必ずしも否定はできませんが、多くの医学用語はそれなりの理由があって生まれていますし、わかりやすくしようとする努力も続けられています。今や日本人の二人に一人が罹患し、三人に一人が亡くなるという「がん」ですが、一般的には「がん」イコール「癌」とされています。しかし厳密には両者は異なるという考え方もあります。すなわち「がん」は悪性腫瘍全般を指し、癌種以外に肉腫や血液腫瘍も含みます。「癌」は癌腫と同じで、悪性腫瘍のうち上皮性のものをいいます。また「癌」と言う漢字は中国由来ですが、「癌」を悪性腫瘍という西洋医学的な使い方をしたのが日本であったため、「癌」という漢字は国字(日本製の漢字)と思われたようです。私の専門領域の産婦人科では、女性生殖器の「ちつ」を「膣」とも「腟」とも書きます。歴史的には蘭学者の大槻玄沢がオランダ語を「室」と訳した上で「腟(しつ)」とし、蘭方医の宇田川榛斎が「腟(ちつ)」と読ませ、緒方洪庵が「膣(ちつ)」を使用して広まったといわれます。

かほど医学用語の漢字は、その語源やその後の変遷も含めて難しいのですが、医療者が使いこなせているかというと大間違いです。医学用語を検討する委員会で出席者全員に書取りをさせたところ、「齲歯(うし)(虫歯のこと)」「痙攣(けいれん)」はほとんどの委員が書けなかったといいます。また医学生で「会陰」を「えいん」と読めたのはわずか5%だったというデータもあります。医療関係者も漢字には悩んでいるのです。

(2023.1.1)