広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter153.ザ・ドクター

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

イギリスの劇作家で演出家のロバート・アイクは、近代の名作を自らの視点で翻案し演出も手がけています。ジョージ・オーウエルの小説「1984」を翻案して上演した作品やアイスキュロス作「オレステイア」の翻案作品などは、イギリスで数々の賞に輝き、いずれも日本で上演されています。オーストリアの医師であり小説家のアルトウル・シュニツラーが1912年に発表した「ベルンハルディ教授」を2019年アイクが翻案・舞台化した作品「ザ・ドクター」が、栗山民也の演出、大竹しのぶ主演で、埼玉を皮切りに日本各地で上演されました。タイトルの「ザ・ドクター」とナマの大竹しのぶに惹かれて観劇しましたが、予習なしで観るにはやや難解で奥深い作品でした。

イギリス最高の医療機関の一つエリザベス研究所の所長ルース・ウルフ(大竹しのぶ)は、自ら人工妊娠中絶を行い失敗して敗血症になり運び込まれた14歳の少女エミリー・ローナンを看取ろうとしています。そこに少女の両親から傍について欲しいとの依頼を受け、臨終の典礼目的でカトリックの神父ジェイコブ・ライスが現れます。しかし、その真偽の確認ができないことを理由に、ルースは神父のICUへの入室を拒否します。エミリーは死を迎え、両親や神父からこの出来事がインターネットに発信され、ルースへの非難で炎上します。研究所の出資者からも問題視され、研究所の医師の中にもルースに賛同する者、次期所長の座を狙って対立する者などさまざまです。宗教界を中心に世論が燃え上がり、テレビのディベート番組が企画され、キリスト教集団の代表、人工妊娠中絶反対運動の代表、ユダヤ文化の研究者、ポストコロニアル(植民地主義)政治学者、偏見への理解と人種意識の研究グループ代表者がパネリストとして待ち受けるディベートに、ルースは参加します。

多彩な分野のパネリストが登場する背景に、この作品が取り上げる「多様性」が存在します。実はルースは医師であり、ユダヤ人、女性、中絶経験者、無神論者、さらにLGBTQの恋人を持つなどいろいろな面を有しています。大まかにはユダヤ人女医と類型化されるルースですが、宗教、人種、ジェンダー、生命倫理、さらには医療が根底にあることが明らかにされ、議論は白熱します。それぞれのパネリストが主張するところは、各々にとって正義であり、信条です。善悪正邪をつけられません。人工妊娠中絶と宗教の関係ひとつとっても、カトリックや一部プロテスタントは絶対禁止としていますが、他宗派キリスト教は一定条件で容認しています。トランプ前大統領の影響で、アメリカでも中絶禁止の州が増えたのは政治の関与もあるのでしょう。わが国も原則禁止ですが、容認条件は緩やかといえます。

この舞台劇は華やかな場面転換もなく、多弁な言葉が飛び交うセリフ劇です。中でも主演の大竹しのぶに課せられたセリフは膨大で、これをこなす彼女は小柄だけれどさすが大女優の貫禄です。脇を固める役者たちも役どころにしっかりはまりきり、やはりイギリス本国で各種演劇賞受賞の話題作のことはあります。多様性に関する多くの問題点を提起し、示唆に富む注目作であることは間違いありません。しかし、宗教問題、人種偏見、ジェンダー問題、階級間闘争等々がイギリスほど深刻でない日本人にとって、本作品をどこまで理解出来るのかは疑問でした。少なくとも私には無理でした。しっかりと予習をしてもう一度観たいと思いました。

医師の立場からは、個人情報の秘匿、インフォームド・コンセントの重視に基づき、ルースのとった行動は間違っていないと考えます。ただ原作が書かれたのは100年以上前であり、翻案の過程でSNSによるバッシングやTVディベートなどアップデートされているとはいえ、現代医療倫理まで考慮するのはストーリーの展開上難しかったのでしょう。ご覧になった皆さんの感想を伺いたく思います。

(2022.3.1)