事業管理者のつぶやき
Chapter152.クオヴァディス
市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆
昨秋、緊急事態宣言解除後にしばらく自粛していた映画館へ立て続けに何本かの映画を観にいきました。
「モーリタニアン 黒塗りの記録」は実話に基づいたシリアスな映画です。西アフリカ、モーリタニア・イスラム共和国出身のモハメドゥ・サラヒ(タハール・ラヒム)は9.11同時多発テロ事件の首謀者の一人としてアメリカ政府に捕らえられ、キューバのグアンタナモ基地内の収容所で拘禁されました。裁判も受けられないまま8年間、想像を絶する過酷な拷問の果てに強要された自白を根拠に、アメリカ政府はスケープゴートとして軍に命じて死刑を求刑、執行を画策します。弁護を引き受けたナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター、1962年生)の正義の戦いが始まります。子役の頃から名女優だったジョディ・フォスターが、人生経験を積んだ今素晴らしい演技を見せます。彼女が取り寄せた軍の証拠書類がすべて黒塗りであるところなど、どこかの国の公文書を彷彿とさせます。一方、辣腕の軍検察官スチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)も上官からの圧力の中、良心に従い捏造証拠を明らかにするなど、息の詰まるやりとりが続きます。ここからはネタバレです。ついに軍の陰謀が明るみに出てモハメドゥは無罪となりますが、実際に釈放されて自由の身になったのはさらに7年後で、再会を熱望していたモーリタニアの母親も亡くなった後でした。
主人公モハメドゥ・サラヒの手記が、アメリカ政府の手で不都合な部分を黒塗りにした検閲済みの状態で2015年に出版され、ベストセラーになっています。アメリカ軍が行った、言葉で言い尽くせないほど残虐な拷問シーンもこの映画ではみられます。しかし、文字や映像の手段で自国のおぞましい罪を明らかにできるだけ、まだアメリカという国に自由と良心が存在すると思える話でした。
ボスニア映画「アイダよ、何処へ(QUO VADIS, AIDA?)」は、ヨーロッパの火薬庫と言われて来たバルカン半島で起こったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争末期1995年のボスニア東部の街スレブレニツァが舞台です。この地域はボシュニャク・ムスリム系、クロアチア系、セルビア系住民が混在し、領土の拡大を目指すセルビア人勢力スルプスカ共和国軍がボシュニャク人迫害を図り侵攻して来ます。2万人の避難民が国連平和維持軍の基地に助けを求めてやって来ますが、受け入れられません。国連軍の通訳であるスレブレニツァ市民のアイダは国連職員であるため安全が確保されていますが、避難民の中の夫と息子たちだけでも助けようと基地内に連れ込みます。しかしルール違反は見逃されず他の避難民とともに力スルプスカ共和国軍に引き渡され、8千人が処刑され「スレブレニツァの虐殺」と名付けられる民族浄化ジェノサイドの悲劇が描かれます。本年度アカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされた本作品の主役アイダを演じるヤスナ・ジェリチッチと共和国軍の将軍ムラディッチを演じたボリス・イサコヴィッチは夫婦で、いずれもセルビア人であり、この映画に出演したことで母国民から非難を受け、大きな政治的圧力をかけられているとのことです。
本作のタイトル「QUO VADIS, AIDA?」は言うまでもなく聖書の中の「QUO VADIS,DOMINE?(主よ、何処へ)」を念頭においたものです。キリストの使徒ペテロは迫害を恐れてローマから逃れる途上で、ローマに向かうキリストに出会い、「主よ、何処へ」と尋ねます。キリストは「私は再びローマに行き、再び十字架にかかるつもりだ」と答える強烈なシーンです。映画におけるアイダたちスレブレニツァの母親も家族や親族を殺されながら、決して復讐を望まず、加害者たちがいる場所へ帰還することで、平和と民族の共生を望んでいるというヤスミラ・ジョバニッチ監督の製作意図が示されています。 わずか四半世紀前、私たちが阪神淡路大震災を経験した頃に、恐ろしいジェノサイドが行われていたことに震撼とするとともに、二つの映画を通じて真実と公正を重視して平和を守らないといけないと痛感しました。
(2022.2.1)