事業管理者のつぶやき
Chapter143.郷愁〜芦屋、神戸、阪神間
市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆
文豪、谷崎潤一郎とその作品についての評論は限りなくあります。彼の自伝的小説のひとつ「細雪」に関する評論、解説の類もまた多数見られますが、最近出版された川本三郎著「『細雪』とその時代」(中央公論新社)もそうで、私達の地元を舞台とする小説の背景が詳述されています。大阪船場の美しい四姉妹を主人公とする「細雪」は、オルコット作「若草物語」に匹敵、比較される人気です。もっとも「若草物語」の原作は1年間の一家の生活を描いたものとはいえ、「続若草物語」をはじめ三冊の続編を含めると姉妹の長期の人生を扱っていますが、「細雪」は昭和11年から16年までのわずか5年間の蒔岡家4姉妹をじっくり描き込んだ作品です。
川本三郎氏は登場人物に病気が多いことから、「細雪」を病気小説として捉え一章を割いています。そもそも初頭から脚気にビタミンB1注射が出てきて、最後は結婚のために東海道線で上京中の三女雪子の下痢症状で終わります。雪子は病気とはいえないまでも顔のシミに悩まされ、次女幸子にはおそらく急性肝炎と思われる黄疸症状が現れます。また家族の何人かは「神経衰弱」に悩まされています。ここでいう「神経衰弱」とは、神経症、うつ病、不眠症などを含む広義の神経精神症状を当時称したものと思われます。この他、雪子の見合いの相手方の家族に精神病患者がいたり、姉妹の中でも流産、死産など産婦人科疾患を経験します。流感による死亡者にも触れられており、いくら医療が十分でなかった昭和10年代といえ病気のオンパレードで、当時の上流階級の病気への関心の深さがうかがわれます。
谷崎自身は「細雪」に幸子の夫貞之助として登場し、実生活同様に前妻と別れたのち、娘連れの幸子と再婚しています。二人の住む「芦屋の家」は阪急電車芦屋川駅近くに設定されていますが、実際に谷崎潤一郎と松子夫人が暮らした「倚松庵」は神戸市東灘区住吉東町で阪神電車魚崎駅近くでした。「倚松庵」を作品に取り込んでいるのにかかわらず舞台を芦屋にしたのは、谷崎自身が高級感のある芦屋それも阪急沿線を好んだからと川本は推察します。谷崎は関東大震災を機に関西に移住、芦屋を含め阪神間を愛したようで、著作の随所にそれが読み取られます。
小説にたびたび登場するオリエンタル・ホテルやトーア・ホテルは戦災で焼失しましたが、戦後再建されたオリエンタル・ホテルには母に連れられてよくランチに行きました。たまたま遭遇した石原裕次郎の脚の長さ、そのかっこよさは今も脳裏に焼き付いています。谷崎が命名したレストラン・ハイウエイも今は閉店しましたが、外国航路で経験を積んだシェフが作る煮込み料理は懐かしの一品です。若い頃はスペイン料理といえばカルメン、ローストビーフはフラワー・ロードのキングス・アームス、イタリアンはドンナロイヤかベルゲンなどと粋がっていました。キングス・アームスはその頃珍しいダーツゲームに興じる外国人客も多いイングリッシュ・パブで、私は公演後に居あわせたエドモンド・ロス楽団のメンバーにプログラムにサインしてもらった思い出があります。いずれも阪神間モダニズムの香りを残すお店の数々です。老舗の多いトアロードの中でもデリカテッセンは今も昔から変わらない食材を提供してくれます。店舗2階の小さなレストランで食べるオープンサンドは休日のランチタイムを幸せで満たしてくれます。使われるパンは店舗こそ移転しましたがこれも老舗のフロインドリーブ、元首相吉田茂が毎週大磯の自宅に空輸させていたというドイツパンで、伝統の味が保たれています。「細雪」が郷愁を呼び起こしました。
(2021.5.1)