広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter131.産業のコメ

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

デジタル時代の今、「産業のコメ」といえば半導体を指すことが多いようですが、1970年代までは長きにわたって「鉄」が産業の基盤となる資源や生産物として「産業のコメ」の地位を保ってきました。19世紀プロイセン王国の宰相ビスマルクが「ドイツ統一は鉄(大砲)と血(兵隊)によってなされる」(鉄血演説)と唱えたことが、「鉄は国家なり」の由来とされています。わが国もこれに追随して、明治政府が官営八幡製鉄所を建設、鉄鋼生産に邁進、50年前には当時の超大企業新日本製鉄(新日鉄)が発足しました。しかし中国をはじめとする新興製鉄産業国の追い上げにあって、国内製鉄所は次々と統合、廃止の憂き目にあっています。私の前任地広島県呉市では、戦艦大和建造の海軍工廠の血を引くIHI呉工場と共に日新製鋼呉製鉄所が街を支える産業でしたが、親会社の意向で閉鎖、和歌山製鉄所の高炉も休止が決まりました。

日本における製鉄の歴史も古く、古代から近世にかけては中国地方の山間部でたたら製鉄が行われていました。アニメ映画「もののけ姫」のたたらで炉を吹くシーンを思い浮かべてください。たたら製鉄ではもっぱら砂鉄を原料に、木炭を燃料として加熱し、純度の高い鉄を取り出します。強い火力を得るために使われた足踏み式の鞴(ふいご)をたたらと呼びます。ちなみに勢いよく踏み出したけれども、的が外れて数歩歩いてしまうことを「たたらを踏む」というのは、たたら炉での様子から生まれた慣用句です。明治時代になり西洋式製鉄・製鋼技術が導入されて、家内工業的なたたら製鉄は衰退していき、大正末期に終焉を迎えました。

しかし、日本刀の材料である和鋼の必要性から、昭和52年に島根県奥出雲町で「日刀保たたら」が再建され、年に数回の操業とはいえ伝統が脈々と受け継がれています。現代のたたら製鉄でも伝統を守り、村下(むらげ)と呼ばれる長(おさ、総指揮官)を中心に、炭焚、小廻りなどの専門職が古式に則って昼夜別なく作業に従事します(遠藤ケイ「鉄に聴け、鍛冶屋列伝」ちくま文庫)。準備作業が終わり、神事を経て、三日三晩不眠不休で操業して、ケラ(素鋼塊)が出来上がります。ケラはさらに選別されて玉鋼(たまはがね)に分類されたものが日本刀の原料となります。

日本刀は玉鋼を槌で叩いて鍛え、下鍛え、上鍛え、造り込みなどの過程を経て、素延べ、焼き入れを行って最後は研ぎにまわします。これらの製作工程のほとんどは鍛冶屋の手によります。日本刀に限りません。包丁、鉋(かんな)、鉈(なた)、ナイフ、斧、卸し金といったものまで、名人と言われる鍛冶屋の手にかかった銘品が、わが国には存在します。いずれの作品も見た目が美しいだけでなく、実用性が高いのが特徴です。刃物の産地は日本各地に点在していますが、大阪府堺市もその一つです。堺市で作られた銘入りの包丁を入手したことがありますが、家人が使い心地、切れ味が全然違うと感心していました。兵庫県では三木市が新潟県三条市、岐阜県関市と並ぶ刃物の産地です。ここには昭和の中ごろまで子供達の筆箱に必ずと言っていいほど入っていた肥後守(ひごのかみ)を造る工場が1軒だけ残っているそうです。よく切れる肥後守を使って、真新しい鉛筆を削った時に漂う木の香りとカーボン芯の匂いを懐かしく思い出しました。

(2020.5.1)