事業管理者のつぶやき
Chapter112.悪魔への身売り
市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆
人間には食欲、睡眠欲、性欲の3つの欲があるといいます。これには異論のあるところで、財欲、名誉欲を加えて5欲あるとか、三大欲以外に生存欲、怠惰欲、感楽欲、承認欲の四つを足して7欲だという説もあります。それどころか人間の欲望は、「除夜の鐘」で示されるように108の煩悩に細分されるそうです。それにしても欲望の程度に個人差はあるでしょうが、108はともかくとして3つでは少なすぎるように思います。
欲求を満たすために人はいろいろな方法をとってきました。学問する。工夫する。訓練する・・・。いずれも正攻法です。しかし、中にはズルをしてでもなんとか手に入れたいと思うのもまた人間の性(さが)です。そこに付け入るのが恐ろしい悪魔の囁きで、欲望に抗しきれずに身を投げ出してしまいます。兵庫県政150周年記念事業の一つドイツオペラ「魔弾の射手」の主人公マックスがその悲劇の主です。護林官補佐マックスは上司の護林官の娘アガーテと恋人同士で、翌日の射撃大会で優勝すれば結婚も許され、護林官の後継者に認められることになっています。彼にとって言わば財欲、名誉欲、恋愛のすべてがかかった大会です。ところがプレッシャーのためか、最初の試射会で負けてしまいます。ここにマックスの同僚カスパーが登場し、狼谷の悪魔から魔弾を手に入れるようにそそのかし、その代償が恋人の魂であることを知らずに、誘いに乗ってしまいます。
射撃大会の当日、魔弾のおかげで絶好調のマックスでしたが、最後の一発は悪魔の思い通りの弾丸で、なんとアガーテではなくカスパーを射抜きます。恐れおののいたマックスは魔弾の秘密を白状し、怒った領主はマックスの永久追放を言い渡します。最後に現れた隠者のとりなしによって、1年の猶予でアガーテとの結婚も赦されるとっても甘い結末です。そこは何と言ってもカール・マリア・フォン・ウエーバー作曲のオペラですから、射撃大会を前にしての興奮、恋人たちの不安、同僚の陰謀、おどろおどろしい悪魔の森、意外な結末、そしてハッピーエンドと内容は盛りだくさんで、息も継がせません。
誘惑に駆られて悪魔に魂を売ってしまうというと、ゲーテの悲劇「ファウスト」が思い起こされます。ファウストが悪魔メフィストと出会い、死後の魂と交換に現世のあらゆる快楽・悲哀を体験させる契約を結びます。ゲーテのほぼ一生をかけたこの超長編戯作は、ファウストに人生の歓喜だけでなく辛苦も経験させ、まるでジェットコースターに乗ったような人生を歩ませます。しかし、この戯曲でもファウストの死後はメフィストに委ねられるのではなく、かつての恋人グレートヒェンの天上での祈りによって救済されます。この唐突で意外性のあるハッピーエンドは「魔弾の射手」にも共通するもので、一体どこから来るのでしょうか。
オペラの決まりごととして、どんな悲惨な状況でも最後はハッピーエンドで終わります。これは王侯貴族の権威を誇示する時代にあって、終末は希望に満ちたものでないといけなかったからです。時代が下がって庶民の世になっても、「魔弾の射手」や「ファウスト」に見られるように、古典オペラの慣習は踏襲されたのです。一方、わが国の民話に題材をとったオペラ「雪女の恋」「夕鶴」はどうでしょう。誰もが知っている「雪女」「鶴のおんがえし」をそれぞれオペラ化したものですが、いずれの主人公も交わした約束を違えて秘密をしゃべってしまいます。約束の相手こそ悪魔ではありませんが、その結果愛する妻はこの世から消えてしまうという悲劇に見舞われます。何だか日本のオペラの方がストイックに思えますが、彼我の違いはどこから来るのでしょうか。
(2018.10.1)