広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter56. すっぱいワイン

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

酒造の歴史は古く、古代日本では巫女が穀類を噛み砕いて甕に吐き出し、発酵させて酒を造ったと言う説もあります。古代オリエントでも遺跡の出土品にワインの残滓が認められたり、古代中国の遺跡からも同様の報告があります。その酒と同じく古い歴史を持つのが「酢」です。酒を放置すると酢になるのは周知のことなので、当然の道理です。酒の成分エタノールが酢酸菌で酸化発酵され食酢になるからです。代表的な酢酸菌にアセトバクター・アセチ(Acetobacter aceti)があります。

「酒あるところ、かならず酢あり」で、酒の種類だけ酢があるわけで、日本酒からは米酢、ビールからはモルトビネガー(麦芽酢)、ワインからはワインビネガー等々です。英語で酢を意味するビネガー(vinegar)自体が、フランス語のvin(ワイン)とaigre(すっぱい)の合成語です。ワインビネガーの一種「バルサミコ酢」は、ブドウの濃縮果汁を長期にわたり木製樽で熟成させたイタリア特産の高級酢です。イタリア語でアチュート・バルサミコ・トラディツイオナーレ(Aceto Balsamico Tradizionale)と呼ばれる文字通り伝統的なバルサミコ酢は、原料のブドウの種類をはじめ、製法、最低12年の熟成期間などの規定を満たさなければなりません。イタリアでは原産地名称保護制度(DOP:Denominatione di Origine Protetta)で特産品を保護していますが、トラディツイオナーレに価するのはイタリア北東部のエミリア・ロマーニャ州(ヴェネツイアのあるヴェネト州とフィレンツエのあるトスカーナ州にはさまれています)のモデナ産あるいはレッジョ・エミリア産に限られています。

そのモデナ産バルサミコ・トラディツイオナーレを食する機会がありました。それもLeonardi酢造で1913年に仕込まれた百年熟成品です。原料のワイン用ブドウは毎年9月または10月に伝統的手法で手摘みされ、ポリフェノール過剰にならないように柔らかく絞られ,果汁は加熱濃縮されます。その後は木製樽に詰められて熟成過程に入りますが、180リットルから10リットルまで徐々に小さいサイズに詰め替え、最低でも9種類以上のサイズの樽を経るそうです。しかも樽材も異なり、樫、トネリコ、ビャクシン、桜、桑、栗等々に順に移し替えていきます。熟成過程のノウハウは父子相伝で受け継がれるそうです。最後にテイスティングが来るのは、ワインや日本酒と変わりありません。

私は、あるイタリアン・レストランのオーナーシェフの好意で、百年モノの瓶から小さなスプーン一杯分をバニラアイスクリームにかけていただきました。ディナーのデザートもコーヒーも終わった後で、ミネラルウオーターで口をゆすいだ上で、貴重なバルサミコ酢を味わいました。それぞれの樽材のフレーバーを嗅ぎ分けるほどの舌を持たない私でも、トロリとした舌触りと酢とはほど遠い甘みは、筆舌尽くしがたいものでした。食事の最中に出された12年モノのバルサミコもそれだけなら十分素晴らしい味でしたが、百年モノには当然ながら及びません。

シェフの蘊蓄を聴きながら、バルサミコ酢にもワインに負けない通が存在することを知ると同時に、1913年に樽に詰めたLeonardiさんは、まさか百年後に極東で日本人が味わうとは夢にも思わなかっただろうと考えると、笑みが浮かんできました。

(2014.2.1)