広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter47. 風景と小説、そして映画

市立芦屋病院 事業管理者 佐治 文隆

この春退職した女性医師から、「芦屋病院で働くことが出来てよかった」と感謝のメッセージと一緒に美しい本をいただきました。「世界の作家が愛した風景」(パイ インターナショナル発行)です。モンゴメリの「赤毛のアン」の舞台カナダ・プリンスエドワード島に始まり、太宰治の故郷であり、名作「津軽」で描かれる青森県の岩木山の姿まで、約50人の作家の小説やエッセイに登場する風景の写真集です。巻末のMAPを見ますと、プリンスエドワード島やアメリカのニューオーリンズ・フレンチクオーター(テネシー・ウイリアムズ「欲望という名の電車」)、カリフォルニア州ヨセミテ(ジョン・ミューア「はじめてのシェラの夏」)、イギリスのロンドン塔(夏目漱石「倫敦塔」)など、私も観光で訪れた地が見つかりました。しかし、他のほとんどは作品を読んだ記憶があるものでも、その背景となる土地まで足を踏み入れたことはありません。

その一つにロシアのサンクト・ペテルブルグの眺望があります。ドストエフスキーの代表作「罪と罰」の主人公ラスコーリニコフの見た風景が美しく撮られています。作家に大きな影響を与えたキリスト正教の寺院で、高台にある聖イサク寺院からの眺めです。「罪と罰」もそうですが、「白痴」(差別用語として今では翻訳に使えません)、「カラマーゾフの兄弟」など彼の名作はいずれも暗くて重い印象の小説ばかりのように思います。しかし、作家としてのデビュー間もない頃の作品「白夜」は、彼の多くの作品同様にサンクト・ペテルブルグの街を舞台にして、白夜の四夜を描いた恋愛小説です。恋に恋する風情の空想・夢想青年と恋人に逃げられた少女の短編で、最後の夜に少女は青年の恋を受け入れます。ところが、有頂天の青年をよそに彼女は現れた一人の男、音信不通の元の恋人、を見つめます。青年の手をふりほどき、恋人の胸に飛び込んでいきます。オンナは残酷な生き物ですね。

この小説は2度にわたって映画化され、1957年にはイタリアの港町を舞台に、1971年にはパリに設定を移して発表されました。71年のロベール・ブレッソン監督の「白夜」は、日本では78年の劇場公開以来上映されず、幻の一作となっていました。最近、ニュープリント版をミニシアターで見る機会があり、サンクト・ペテルブルグとパリの違いはあれ、原作にかなり忠実と考えられるストーリー展開と残酷な結末を確かめました。1970年代のパリの風景は、私がはじめてパリを訪れた時期でもあり、主人公達のポンヌフでの出会い、薄暮のセーヌ川を美しいイルミネーションを点灯して進む遊覧船、さざめく川面の反射光など、懐かしい思い出と重なりました。映画と違って、小説「白夜」自体は酷評をもって迎えられたそうですが、ドストエフスキーをめぐっては多くの女性たちと複雑な恋愛関係を持っていたことが知られており、この作品にも影響を与えたのかも知れません。

ロシア文学といえば、トルストイは欠かせません。レフ・ニコラエヴィチ・トルストイはドストエフスキーとほぼ同時代の19世紀に活躍し、「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」などの代表作で人気作家であっただけでなく、思想的にも社会に大きな影響を与えました。トルストイ自身が貴族階級出身であっただけに、両作品では帝政ロシアの華麗な上流社会が描かれ、賭博狂いの貧乏作家ドストエフスキーの描写するロシアとは趣をだいぶ異にします。「アンナ・カレーニナ」は最近まで一路真輝主演のミュージカルで公演され、映画もあのキーラ・ナイトレイ主演で全国ロードショーされました。政府高官の妻である主人公アンナは、サンクト・ペテルブルグにおける社交界の華の地位を捨て、モスクワへの車中で知り合った将校との不倫の恋にひたむきに生きようとして、悲劇の結末に突っ走ります。ここでは「白夜」とは対照的な女性像を見ることが出来ます。映画「アンナ・カレーニナ」はミュージカル映画「レ・ミゼラブル」で涙を絞った女性たちに、また種類の違う新たな涙を流させることでしょう。

(2013.5.1)