広報誌HOPE Plus

事業管理者のつぶやき

Chapter138.暗雲の時代 NEW

市立芦屋病院事業管理者 佐治 文隆

ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞(監督賞)を獲得した「スパイの妻」が10月中旬に公開されました。神戸出身の黒沢清監督が太平洋戦争前夜の神戸を舞台に、神戸をロケ地に選んで撮影した作品です。公開二日目の日曜日には神戸市内の映画館で、黒沢監督の舞台挨拶、インタビュー付きの特別興行があり、さっそく参加しました。時は1940年、戦争の足音が近づいてきた頃、神戸の瀟洒な洋館で暮らす、裕福な貿易商福原優作(高橋一生)聡子(蒼井優)夫婦の物語です。夫が満州で偶然手に入れた日本軍の悪事の証拠、当然国家機密ですが、正義感から世界に公開しようと試みます。彼らの行動に疑いを持つ憲兵隊分隊長(東出昌大)の追求が絡み、拷問、陰謀、裏切りが渦巻く混沌とした闇の世界が、不安定な世相とともに描かれます。

ストーリーはもちろんフィクションですが、ペストを細菌兵器として用いた人体実験は現在のコロナ禍を彷彿とさせ、数々の虐殺行為などの伝えられる悪行の隠蔽、改竄を図る様子は、前政権の「森友学園」「加計学園」「桜を見る会」や現政権の「日本学術会議」問題に見られる忖度を想像させます。私が体験したことのない戦前から戦中の軍部の暴走や戦争に突入していく世相は、二度と繰り返してはならないという監督の思いも込められているのかも知れません。アニメ映画「この世界の片隅で」で観た原爆や空襲の被害は、この映画でも雨のように降り注ぐ焼夷弾で焼け野原となる市街地と逃げ惑う人々で再現されます。

「スパイの妻」はラブ・ストーリーでもあります。優作と聡子の夫婦愛、とくに聡子の夫に対する執念に近い愛を蒼井優が演じ切ります。いくら夫唱婦随が当たり前であった時代とはいえ、裏切られてまでも(たとえ真意は異なっていても)夫に従う女性像は、現代女性から見ると納得がいかないかも知れません。かみ合わなくても、掴みきれなくても、このような愛の形もあるということでしょうか。

監督はインタビューで蒼井優を、演技と平常のスィッチのオン・オフがはっきりした俳優だと評していました。撮影中「カット!」の声を聞くとすっと素に戻って、「今の演技は何点」と訊ける人だそうです。その点、東出昌大などは「カット!」の後もずっと演技を引きずっているようです。このような裏話を聴けるのは生出演の醍醐味ですね。また、この映画で神戸市内のロケを多用したのは予算の関係で、CG(コンピューター・グラフィックス)やセットを作るより安上がりだからだそうです。しかし旧グッゲンハイム邸、神戸税関庁舎、旧加藤海運本社ビルなど戦前から残る建物をロケ場所に選んだのは大正解で、ハイカラだった神戸の雰囲気がうまく醸し出されています。

(2020.12.1)